日本遺産 北総四都市江戸紀行とは
Japan Heritage: About An Edo Travelogue through Four Hokuso Cities
概要
江戸を支え、江戸と共に発展した北総四都市。江戸の影響を受けながらも独自に発展したこれらの都市には、今も江戸の情緒が残されています。
平成28年(2016)佐倉・成田・佐原・銚子の四都市が、「北総四都市江戸紀行・江戸を感じる北総の町並み」-佐倉・成田・佐原・銚子:百万都市江戸を支えた江戸近郊の四つの代表的な町並み群- として日本遺産に認定されました。
東は太平洋に面し、この地域を流れる利根川は太平洋に注いでいます。江戸時代、大都市江戸に隣接し、豊かな土地と魚場から得られた資源や商品を、利根川水運によって江戸に輸送していました。銚子で作られた醤油や水揚げされた海産物は江戸の食文化を支え、水郷佐原は利根川水運により商家が栄えました。利根川水運を利用した物流は江戸の生活を支えるとともに、この地域をより豊かに発展させました。
また、江戸と北総地域を結ぶ街道も、この地域の発展に大きな役割を担っていました。
佐倉にあった佐倉城は江戸防御の要であり、この佐倉城と江戸とを結ぶ佐倉街道が整備されたことで、人々の往来が盛んになりました。さらに、江戸時代に成田参詣が流行したことで、佐倉城から先の成田山新勝寺まで足を運ぶ参詣客が増加しました。
この四都市は江戸との交流の中で、江戸の影響を受けながらも、城下町の佐倉、門前町の成田、商家町の佐原、港町の銚子という特色ある独自の発展をとげました。四都市では江戸時代から変わらない町並みと、祭礼などの伝統文化を今も見ることができます。
多様な文化と伝統が残る北総四都市にあなたも訪れてみませんか。きっと、かつての江戸の賑わいと風情を感じることができるでしょう。
江戸を守る城・江戸と結ぶ街道、城下町 佐倉。
佐倉城は、江戸の東を守る要として築城以来、政治・軍事の両面で江戸を支えてきました。
北総地域は古代より奥州に臨む要所として位置づけられており、
江戸時代もその重要性から佐倉には、有力譜代大名が多数配置されました。
政治的要所である佐倉と江戸を結んだ佐倉街道は、後に成田街道とも呼ばれ、当時人々に大人気だった「成田参詣」による佐倉城下町の賑わいが伺えます。
加えて、幕末に開国へと導いた老中・堀田正睦が藩校「成徳書院」を拠点に洋学の振興に努め、江戸に人材を輩出する学都としても発展しました。特に、1843年に「佐倉順天堂」が設立され、ここで学んだ多くの若者が明治の医学界で活躍するなど、佐倉は「蘭学の先進地」であったということができるのです。
スポット一覧
佐倉市は「軍事、政治の両面で江戸を支え、学問にも力を入れた城下町」と言われるけれど、県外の人にはその姿が浮かびにくい。ところが実際に足を運んでみると、実直で熱い想いを抱いた人たちの姿が見えてきたのです。
奈落の底のような空堀
佐倉市が「軍事、政治の両面で江戸を支え」とは一体どういうことなのか。
この地にあった佐倉城は、江戸時代、「江戸の東を守る要」として江戸幕府が始まって11年後の1611年から7年という年月をかけて、徳川家康の従兄弟である土井利勝によって作られました。従兄弟に築城を任せるということは、家康が佐倉の地をよほど重要な拠点であると考えていた、ということになります。
敵の侵入を防ぐために土を積み上げて作った堤防状の土塁や、同じように敵の侵入を防ぐための空堀や水堀が、がっちりと城を守っていたのです。
城郭があった場所から今でも残る空堀を覗いてみると、どかーんと深く掘られた空間に飲み込まれてしまいそうで、足がすくんでしまいました。逆にいえば、その深さを昇って来るのは、至難の技だったはず。空堀ひとつ見るだけで、その城が持っていた「絶対に攻め込ませない!」という気概が伝わってくるようでした。
縁側から何を思う
お城があるということは、そこに仕える藩士たちも城の周りに屋敷を構えて暮らしているわけです。それが俗にいう武家屋敷。佐倉の地には、今でもその屋敷があります。
なんでも佐倉藩では「居住の制」という決まりを作り、それに従って藩士たちは暮らしていたとか。居住の制とは、藩士の身分によって住まう屋敷の規模や様式が決まるというもの。つまり、道行く人から一目で「あ、この藩士は良い身分のお方なんだな」とか、「この屋敷の藩士は、もう一踏ん張りってとこか」ということが分かってしまうのです。これは非常にシビアな決まりに思えます。しかし、簡素な住まいが恥ずかしいと思うならば、しっかり勤めて身分を上げていこうとする、原動力になったかもしれません。
実際に廻ってみると3軒並ぶ武家屋敷には歴然とした差がありました。敷地の広さも、屋敷の作りも本当に違うのです。それがあまりにもリアルに感じられ、いつの時代もお勤めをするということは厳しいものなのだなあと考えさせられました。
人に尽くすということ
現代の医師が幕末にタイムトリップして医療の発展に寄与した、という漫画がありますが、実際に日本の近代医学の発展に寄与した場所が、旧佐倉順天堂です。
佐倉藩主堀田正睦の命を受け、江戸で名を馳せていた蘭医学者である佐藤泰然が佐倉に移り住み、医学所「順天堂」を開設。そこで実際に治療を行いながら後進の指導にもあたりました。その多くが各藩から医学を学ぶために派遣されて来た人たち。皆、各藩の経費で来ているわけですから相当な責任と覚悟を持って、切磋琢磨しながら学んでいたことでしょう。
建物内には当時使用していた道具等さまざまな資料が並べられていますが、その中に乳癌の手術例が紹介されています。幕末の頃には既に患部を切除するような外科手術がなされ、ここで多くの事例が扱われました。そして先進の医学が各藩に持ち帰られたことで、地方にも医学が行き渡り、多くの命が救われた。その原点がここにあったのかと思うと感慨深いものがありました。
それぞれの場所を廻ることで、派手なことは何もないけれど、堅実に生きていこうとする幕末の人たちの暮らしを感じることができました。
ライター:譽田亜紀子(こんだあきこ)
岐阜県生まれ。京都女子大学卒業。奈良県橿原市の観音寺本馬土偶との出会いをきっかけに、各地の遺跡、博物館を訪ね歩き、土偶の研究を重ねている。またテレビやラジオに出演するかたわら、トークイベントなどで、縄文時代や土偶の魅力を伝える活動を行う。著書に『はじめての土偶』(2014年、世界文化社)、『にっぽん全国土偶手帖』(2015年、世界文化社)、『ときめく縄文図鑑』(2016年、山と渓谷社)、『土偶のリアル』(2017年、 山川出版社)、『知られざる縄文ライフ』(2017年、誠文堂新光社)がある。現在、中日新聞水曜日夕刊に『かわいい古代』を連載中。
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武家屋敷では甲冑を見よう。
武家屋敷では、展示された調度品に佐倉の武士の生活様式を垣間見ることができます。
武家屋敷に行ったら見逃せないのが甲冑です。大小二つの甲冑が展示してあります。また、年数回、甲冑試着会も開催されるようなので、ホームページなどでチェックしてみよう。
絵になる古径(こみち)。
家屋敷通りに隣接した古径で「ひよどり坂」といいます。サムライの古径とも呼ばれているようです。空までまっすぐに伸びる竹林に囲まれたその道は、太陽の光を程よく遮断して、なんとも言えない絵になる雰囲気を醸し出しています。サムライになった気分で、坂を下ってみましょう。
広い庭は、四季を楽しむ。
旧堀田正倫庭園は、最後の佐倉藩主だった堀田正倫(ほったまさとも)の邸宅・庭園です。 この庭園、「さくら庭園」という名で市民にも親しまれています。その名の通り、春には桜、初夏にはアジサイ、秋には紅葉など、四季折々で様々な花が庭を彩ります。
成田山新勝寺の門前町 成田。
成田は、江戸庶民からの篤い信仰を受けた成田山新勝寺の門前町として発展しました。
その背景には、歌舞伎役者市川團十郎(屋号:成田屋)の深い帰依と、歌舞伎「成田山分身不動」の大ヒット、さらには江戸深川での秘仏公開の出開帳キャンペーンの成果もあり、江戸庶民の間で「成田参詣」がブームとなりました。
また、成田に向かう人々は、その往来で佐倉城下や宗吾霊堂など名所旧跡にも立ち寄りました。
参道には、参詣客の疲れを癒すために、利根川・印旛沼の川魚、そして銚子の醤油を味付けとしたうなぎ料理をふるまう旅館などが軒を連ねました。
日本遺産 北総四都市江戸紀行 構成文化財一覧
スポット一覧
成田山新勝寺と言えば、毎年多くの人が初詣に参詣し、江戸時代の歌舞伎役者、初代市川團十郎から続く「成田屋」と呼ばれる「市川宗家」とご縁が深い寺社として知られています。
しかし、成田山新勝寺を今に残したのは、他の誰でもない、江戸に暮らした町衆たちでした。
大手を振って、
成田山新勝寺へGo!
最寄り駅に降り立つと、そこはもう、成田山新勝寺の参道。
トコトコ歩いて両脇に立ち並ぶ土産物屋をひやかしながら、新勝寺へ向かいます。
まずはご本尊である成田不動尊にお参りしてからと思うものの、足はあちこち立ち止まるばかり。もしかしたら、こっちが目的なんじゃなかろうか、そんなことが頭をよぎるわけですが、参道散歩にそんな楽しみを見出していたのは、どうやら今に始まったことではないようです。
寺社仏閣への参詣が庶民の間に広まったのは、治世が安定した江戸時代。娯楽が少ない時代、寺社仏閣への参詣はお楽しみのひとつだったようで、皆がこぞって出掛けたのです。そりゃあそうだ。
「成田のお不動さまにちょっくらお願いことをしてくるよ」という周囲への公明正大な理由のもと、仕事を休んで旅が出来るのです。それも、普通であれば一泊二日で到達するはずの旅の行程を、ものの本によれば、船橋あたりで一泊し、ゆったりと旅を楽しんだ人も多かったとか。貪欲に参詣を楽しもうとする気持ちが見えて、なんだかいいじゃありませんか。
心の関所も取っ払う成田参詣
この参詣を支えたのが参詣講と呼ばれる組織。
講員は来るべき日のために少しずつ旅の費用を積み立て、遠隔地で旅費がかさむ場合は講の代表者が皆の願いをたずさえて参詣に出掛けたとのこと。
今でも残る参道の宿屋の軒先に掲げられた看板には、各地区の講の名前を見ることができます。それを眺めていると、江戸時代の旅人たちの楽しげな顔が浮かんできて、思わずニンマリしてしまうのです。
ちなみに江戸時代の末期、江戸の街には数百人から数千人規模の成田不動講が二百以上もあったとか。
なぜこんなに盛んだったのかと言えば、当時は全国各地、要所要所に関所があって今のように気楽に各地を行き来することができません。ところが江戸から成田山新勝寺まではひとつの関所もなかったのです。
結果、町衆は何も心配することなく、晴ればれとした気分で、成田参詣を楽しむことができたというわけです。。
熱々鰻を頬張れば
さて、門をくぐり本堂に祀られた不動明王を前に、旅人たちは何を願ったのでしょう。まずは、無事に辿り着いたことを感謝し、そこでひと心地。その後、ゆっくりと不動明王と対話をしたのではないでしょうか。
いつの時代も生きていれば悩みは尽きません。それが他人から見れば些細なことであっても。心の中に塵のように積もった苦しみを、不動明王に聞いてもらうのです。「大丈夫だ。今日でその苦しみも終わりになった。私がすべて聞き届けよう」己の心にだけ届く不動明王の声に、旅人はどんなに心が洗われたか。
心の荷物を降ろした旅人は、綺麗さっぱり清々しい心持ちで、いざ行かん!
参道に立ち並んだ鰻屋へ。あそこがいいか、いや、こっちの串打の手際がいい。いやいやあそこのタレは継ぎ足し継ぎ足しで秘伝のタレだとオレは聞いた。そんな会話もあったかもしれません。
参道で食べる鰻重は、江戸末期には200文だったそうで、現在価値で5,000円ほど。お重の蓋を開けた瞬間に立ち昇る湯気とタレの香りに、旅の疲れも吹っ飛んだことでしょう。一口食べるごとに不動明王の加護に感謝し、残してきた家族へのお土産は何にしようかと想いを巡らすのです。
こうして江戸の経済力に支えられ、一方で、町衆の心を支え続けた成田山新勝寺は今も変わらず、人々の心に耳を傾けているのです。
ライター:譽田亜紀子(こんだあきこ)
岐阜県生まれ。京都女子大学卒業。奈良県橿原市の観音寺本馬土偶との出会いをきっかけに、各地の遺跡、博物館を訪ね歩き、土偶の研究を重ねている。またテレビやラジオに出演するかたわら、トークイベントなどで、縄文時代や土偶の魅力を伝える活動を行う。著書に『はじめての土偶』(2014年、世界文化社)、『にっぽん全国土偶手帖』(2015年、世界文化社)、『ときめく縄文図鑑』(2016年、山と渓谷社)、『土偶のリアル』(2017年、 山川出版社)、『知られざる縄文ライフ』(2017年、誠文堂新光社)がある。現在、中日新聞水曜日夕刊に『かわいい古代』を連載中。
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参詣客に人気のくすりの話。
成田山の参道を散歩する時は、ぜひ三橋薬局を。ここは創業が元禄時代で『はらのくすり 成田山一粒丸』が売られています。その昔は、道中薬と言われ、成田山新勝寺に訪れる旅人が、この薬を持参していれば何病にも良いとされていたとか。今でも買えるそう。旅人になった気分で立ち寄ろう。
前の本堂、釈迦堂。
大本堂でお参りしたら、向かって左奥へ足を進めましょう。そこには1858年に建立された釈迦堂があります。この釈迦堂、実は旧本堂で、大本堂の建立に先立って現在地に移築されたそうです。今の本堂にくらべ幾分も小ぶりではありますが、彫刻なども見ごたえがあります!
前の前の本堂、光明堂。
前の本堂だけだと思っていたら、前の前の本堂がありました。それが、1701年に建立された光明堂です。ちなみに前の前があるということは…。前の前の前もありました。それが参道途中にある薬師堂です。こうしてみると成田山が時代と共に変化していった歴史を感じることができます。
「お江戸見たけりゃ佐原へござれ、佐原本町江戸優り」。
江戸時代の戯れ歌に唄われた当時の佐原の繁栄ぶりです。
江戸時代、佐原は『街道』と『水運』が交差する要衝であり、
利根川水運と結びついた酒造などの商業活動により、
下利根随一の河港商業都市に発展しました。
また、香取神宮の参道の起点として参詣客を迎える町としても大いに賑わいました。
また町には、旦那衆と呼ばれた商人たちにより自治的な運営が行われ、
「大日本沿海輿地全図」を作った伊能忠敬もその1人で、 経済的発展は地域の文化・学問にも影響を及ぼしました。
日本遺産 北総四都市江戸紀行 構成文化財一覧
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改札をすり抜け、白地で力強く染め抜いた
「佐原駅」という暖簾をくぐった瞬間、
気分は否応にも高まりました。
どんな江戸に出会えるのか。
のんびりゆったり、
地区の要である小野川沿いを歩いてみることにしました。
心がしっとりと潤う町並み
町の中を流れる小野川は、百万都市である江戸へと続く利根川に繋がり、江戸時代、そこで暮らす人たちにとって大切な水運路でした。
その両岸に建ち並ぶ家々は今でも趣があり、一軒一軒足を止めて眺めずにはいられないほど素晴らしい建物ばかりです。
例えば酒屋さん。店を覗けば、時代劇で見るような一斗瓶が店の奥に並び、江戸の昔から変わらず繰り返されたであろう「買ってくれるのは嬉しいけれど、あんまり飲み過ぎたらだめだからね」などという、店とお客さんの粋なやり取りが今にも聞こえてきそうな雰囲気なのです。
酒屋さんだけではありません。町の建物からは、人の営みが様々に折り重なって作り上げた、温かな雰囲気が漂っていました。
そこに今も人々が生きている。暮らしている。
けして華美ではないけれど、町を歩くと、ずっと変わらず続いている人の暮らしが、町の息吹となって訪れた人の心を潤すのです。
時間の流れが緩やかというだけではない、心地のいい湿度が、佐原の町を包んでいました。
舟型タイムマシンに
乗り込めば
佐原に来たなら乗らなきゃダメ!な、舟に乗る事にしました。
訪れた時は冬。舟の上に置かれたコタツが冷えた身体には本当に嬉しくて、いそいそと足を入れると舟はゆっくり動き出しました。
新緑の頃は、柳がさぞかし美しいのだろうな、そんなことを思いながら舟から町並みを眺めます。さっきまで歩いて眺めた風景がなんだか違う表情を見せたのです。目線が変わっただけなのに、この感じはなんだろう。
道路の上では今の時間が流れ、水路の上を進む私たちのところには、300年前と同じ時間が流れている。ゆったりと景色を眺めながら舟に乗っているだけなのに、江戸時代にタイムトリップしているような気持ちになるのです。
こうして当時の人たちは、舟に味噌や醤油、酒を積んで江戸に向かったのか。商いはいつも良いときばかりじゃない。様々よぎる不安を振り払うように、商人は品物を舟に乗せ、小野川から利根川、そして江戸へと運んだのでしょう。
物資を送る中継地として当時は5,000人もの人が暮らしたという、賑やかで活気があった佐原。小野川の舟は、江戸時代と今を繋ぐタイムマシンのようでした。
伊能忠敬は中年の星!
舟着き場の前に、立派な旧宅がありました。
己の足でくまなく海岸線を歩き、日本で初めての地図『大日本沿海輿地全図』を作った江戸時代の商人であり、測量家でもあった伊能忠敬が商いをしたお店です。
敷地の中に入ると、何も思い残す事はないとでも言うような、とても清々しいお顔をした彼の銅像が建っていました。
17歳で婿入りし、紆余曲折を経ながらも伊能家の再興を果たした忠敬は、晩年家業を息子に譲り、50歳にして江戸に出るのです。
50歳と言えば、江戸時代の平均寿命。
その頃に一念発起して天文学を学び、55歳にして彼は蝦夷に旅立ったのです。なんというチャレンジ精神!
自分さえ諦めなければ、やりたい事はいくつからでも出来るのだという生きる勇気を、思いがけず伊能忠敬から貰ったのです。
佐原地区は江戸時代の空気をただ纏っているだけでなく、当時の人たちのチャレンジ精神を静かに伝えてくれる町でした。
ライター:譽田亜紀子(こんだあきこ)
岐阜県生まれ。京都女子大学卒業。奈良県橿原市の観音寺本馬土偶との出会いをきっかけに、各地の遺跡、博物館を訪ね歩き、土偶の研究を重ねている。またテレビやラジオに出演するかたわら、トークイベントなどで、縄文時代や土偶の魅力を伝える活動を行う。著書に『はじめての土偶』(2014年、世界文化社)、『にっぽん全国土偶手帖』(2015年、世界文化社)、『ときめく縄文図鑑』(2016年、山と渓谷社)、『土偶のリアル』(2017年、 山川出版社)、『知られざる縄文ライフ』(2017年、誠文堂新光社)がある。現在、中日新聞水曜日夕刊に『かわいい古代』を連載中。
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船着場はもっとあった話。
小野川の左右の石垣を見てみると、突如石垣のピッチが異なる場所があります。これはかつて荷揚げをするための「だし場」が埋められたものです。昔はたくさんの「だし」があったそうで、当時の賑わいの面影を感じることができます。
大火事でも焼けなかった話。
商業の街というだけあって、小野川を中心とした十字のメインストリートには、江戸風情を残した建物が並びます。多くの建物は明治時代の火事で焼失してしまいましたが、「中村屋商店」は火災を免れ、江戸時代からの貴重な姿が残っています。
香取神宮の旧参道の話。
香取神宮の一の鳥居が利根川に面して立つ津宮鳥居河岸。かつてはここが表参道口でした。そこから道なりに進むと、朱塗りの董橋(ただすばし)があります。古い草履から新しい草履に履きかえるので、通称「草履抜橋(じょんぬきばし)」と呼ばれているそうです。
利根川の舟運で江戸の食文化を支えた港町 銚子。
江戸の町を利根川の水害から守るため行われた利根川の東遷事業は、利根川の舟運を発達させ、銚子を起点として江戸に向かう利根川水運ルートは、物資を江戸に運ぶ大動脈となりました。
また商業だけでなく、成田参詣、香取神宮などの「三社詣で」、屏風ケ浦に代表される「銚子の磯巡り」など江戸庶民の小旅行が人気となり、水運ルートによる人々の往来も活性化しました。
江戸時代初期、紀州から移住した崎山治郎右衛門が整備した外川港に始まる銚子の港は、江戸っ子の食文化を支え、銚子の醤油醸造は江戸っ子好みの「関東風の醤油」を生み出し、江戸の食文化を開花させました。
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幕末の頃『利根川図志』という書物が作られました。それは利根川流域の名所旧跡を紹介した今で言う情報誌のようなもの。
江戸時代からそんな書物が出されていたとは驚きですが、そこにはオススメの銚子スポットも記載され、江戸の人にとって恰好のバカンス先だったようです。
鰯を追って、どこまでも
その坂から眺める風景は、本当に、本当に美しく、その街並を整備した崎山治郎右衛門に感謝せずにはいられませんでした。
その街とは、銚子電鉄の終着駅である外川駅から、碁盤の目状に海に面して広がる外川の街のこと。斜面に密集して立ち並ぶ家屋の瓦が、海のキラメキと同じようにキラキラと輝き、海と大地が同じキラメキで混ざり合っている。そこに今も、江戸時代と変わらず漁業を営みながら暮らす人たちがいます。
外川は、崎山が万治元年(1658年)に漁港を築港した際に、計画的に作った街。彼は紀州和歌山の出身でしたが、彼に限らずこの時代、黒潮の流れと共に移動する鰯を追って、紀州の漁師が房総半島などの漁場を開拓したといいます。
紀州の漁師たちは、黒潮の影響で生まれ故郷と環境が似ている銚子が気に入ったのでしょう。この地で漁師として一旗上げた感謝と、この先も外川で生きていくという覚悟が街を作らせたのかもしれません。そしてこの街の活況は、『利根川図志』にも書かれています。
醤油がなくちゃ始まらない!江戸の日本料理
黒潮に乗って銚子にやって来たのは漁師たちだけではありませんでした。
醤油発祥の地といわれる和歌山県湯浅の隣りの広村(現広川町)に暮らした初代濱口儀兵衛が銚子に渡り、醤油作りを始めたのです。これが今や誰もが知るヤマサ醤油の始まりでした。
彼は、外川の街を作った同郷の崎山の成功に刺激を受けて、銚子で商売をやろうと考えたのではないかと言われています。銚子の環境を聞き及び、醤油造りが盛んな湯浅とも環境が似ていることにヒントを得て「銚子で醤油を作って江戸に運べば商売になるのではないか」と思ったのではないでしょうか。
その濱口の読みは大当たりし、銚子は漁業によって新鮮な魚を江戸に供給しただけでなく、醤油の街としても発展し、江戸前の寿司や蕎麦などの食文化を支えたのです。
濱口の商才とチャレンジ精神がなければ、江戸前の食文化の基礎は作られなかったと言ったら言い過ぎでしょうか。
遥か昔に想いを馳せるスイッチ、
屏風ケ浦
『利根川図志』に記載があるのはもちろん、江戸末期の著名な浮世絵師、歌川広重の『六十余州名所図会』にも描かれた屏風ケ浦は、遠くから眺めても、そのスケールの大きさに圧倒されます。
ここは江戸の人々が利根川の水運を利用して船遊びを楽しむ「磯巡り」の終着点。小さな舟に乗り込み、浮かれ気分で遊覧していた人々は、徐々に近づく巨大な崖に驚いたことでしょう。江戸の街に住んでいては、けしてみることが出来ない雄大で荒々しい自然の姿なのですから。
しかし屏風ケ浦はそれだけではありません。荒波で削られ続けたお陰で、その断面は常に美しく、地層の縞模様がはっきりと見て取れるのです。それは柔らかな曲線を描きながら何層にも重なり合い、自然が織りなす絵画を見ているようなのです。広重が絵に描きたくなった気持ちが分かるというもの。
現在はその崖に風車が建ち並んでいますが、それはそれで一種異国の風情を醸し出し、幻想的ですらあります。
『利根川図志』によって広く紹介された銚子の街は、食と心の栄養を江戸庶民に提供した街でした。
ライター:譽田亜紀子(こんだあきこ)
岐阜県生まれ。京都女子大学卒業。奈良県橿原市の観音寺本馬土偶との出会いをきっかけに、各地の遺跡、博物館を訪ね歩き、土偶の研究を重ねている。またテレビやラジオに出演するかたわら、トークイベントなどで、縄文時代や土偶の魅力を伝える活動を行う。著書に『はじめての土偶』(2014年、世界文化社)、『にっぽん全国土偶手帖』(2015年、世界文化社)、『ときめく縄文図鑑』(2016年、山と渓谷社)、『土偶のリアル』(2017年、 山川出版社)、『知られざる縄文ライフ』(2017年、誠文堂新光社)がある。現在、中日新聞水曜日夕刊に『かわいい古代』を連載中。
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港町ならではの絶景を神社から。
銚子漁港に近い川口神社は、昔から利根川河口を出入りする漁船主や漁師の信仰が厚い神社です。この神社は二つの鳥居があります。ぜひ利根川近くの一の鳥居から歩いてみよう。長い階段を上って振り返ると、ほのかな潮風の香りの中、川が海へつながっていく様子や、風車、漁船などの風景が広がります。
江戸の食を支えた漁業は今も。
紀州から移住した崎山治郎右衛門が整備した外川港に始まる銚子の港は、江戸っ子の食文化を支えました。その銚子漁業は、今もなお、日本屈指の年間水揚量を誇っています。漁港に行けば、青い海と青い空、白いカモメに鮮やかな漁船に出会えることでしょう。
珍しい白いポスト。
犬吠崎灯台の入口右手側には、とても珍しい白いポストがあります。真っ青な空を背景に、白が映えてとてもきれいです。
また、犬吠崎灯台は初めて日本製のレンガを使用した灯台だそう。99段ある階段で登ることもできます。