江戸を守る城・江戸と結ぶ街道、城下町 佐倉。
佐倉城は、江戸の東を守る要として築城以来、政治・軍事の両面で江戸を支えてきました。
北総地域は古代より奥州に臨む要所として位置づけられており、
江戸時代もその重要性から佐倉には、有力譜代大名が多数配置されました。
政治的要所である佐倉と江戸を結んだ佐倉街道は、後に成田街道とも呼ばれ、当時人々に大人気だった「成田参詣」による佐倉城下町の賑わいが伺えます。
加えて、幕末に開国へと導いた老中・堀田正睦が藩校「成徳書院」を拠点に洋学の振興に努め、江戸に人材を輩出する学都としても発展しました。特に、1843年に「佐倉順天堂」が設立され、ここで学んだ多くの若者が明治の医学界で活躍するなど、佐倉は「蘭学の先進地」であったということができるのです。
スポット一覧
佐倉市は「軍事、政治の両面で江戸を支え、学問にも力を入れた城下町」と言われるけれど、県外の人にはその姿が浮かびにくい。ところが実際に足を運んでみると、実直で熱い想いを抱いた人たちの姿が見えてきたのです。
奈落の底のような空堀
佐倉市が「軍事、政治の両面で江戸を支え」とは一体どういうことなのか。
この地にあった佐倉城は、江戸時代、「江戸の東を守る要」として江戸幕府が始まって11年後の1611年から7年という年月をかけて、徳川家康の従兄弟である土井利勝によって作られました。従兄弟に築城を任せるということは、家康が佐倉の地をよほど重要な拠点であると考えていた、ということになります。
敵の侵入を防ぐために土を積み上げて作った堤防状の土塁や、同じように敵の侵入を防ぐための空堀や水堀が、がっちりと城を守っていたのです。
城郭があった場所から今でも残る空堀を覗いてみると、どかーんと深く掘られた空間に飲み込まれてしまいそうで、足がすくんでしまいました。逆にいえば、その深さを昇って来るのは、至難の技だったはず。空堀ひとつ見るだけで、その城が持っていた「絶対に攻め込ませない!」という気概が伝わってくるようでした。
縁側から何を思う
お城があるということは、そこに仕える藩士たちも城の周りに屋敷を構えて暮らしているわけです。それが俗にいう武家屋敷。佐倉の地には、今でもその屋敷があります。
なんでも佐倉藩では「居住の制」という決まりを作り、それに従って藩士たちは暮らしていたとか。居住の制とは、藩士の身分によって住まう屋敷の規模や様式が決まるというもの。つまり、道行く人から一目で「あ、この藩士は良い身分のお方なんだな」とか、「この屋敷の藩士は、もう一踏ん張りってとこか」ということが分かってしまうのです。これは非常にシビアな決まりに思えます。しかし、簡素な住まいが恥ずかしいと思うならば、しっかり勤めて身分を上げていこうとする、原動力になったかもしれません。
実際に廻ってみると3軒並ぶ武家屋敷には歴然とした差がありました。敷地の広さも、屋敷の作りも本当に違うのです。それがあまりにもリアルに感じられ、いつの時代もお勤めをするということは厳しいものなのだなあと考えさせられました。
人に尽くすということ
現代の医師が幕末にタイムトリップして医療の発展に寄与した、という漫画がありますが、実際に日本の近代医学の発展に寄与した場所が、旧佐倉順天堂です。
佐倉藩主堀田正睦の命を受け、江戸で名を馳せていた蘭医学者である佐藤泰然が佐倉に移り住み、医学所「順天堂」を開設。そこで実際に治療を行いながら後進の指導にもあたりました。その多くが各藩から医学を学ぶために派遣されて来た人たち。皆、各藩の経費で来ているわけですから相当な責任と覚悟を持って、切磋琢磨しながら学んでいたことでしょう。
建物内には当時使用していた道具等さまざまな資料が並べられていますが、その中に乳癌の手術例が紹介されています。幕末の頃には既に患部を切除するような外科手術がなされ、ここで多くの事例が扱われました。そして先進の医学が各藩に持ち帰られたことで、地方にも医学が行き渡り、多くの命が救われた。その原点がここにあったのかと思うと感慨深いものがありました。
それぞれの場所を廻ることで、派手なことは何もないけれど、堅実に生きていこうとする幕末の人たちの暮らしを感じることができました。
ライター:譽田亜紀子(こんだあきこ)
岐阜県生まれ。京都女子大学卒業。奈良県橿原市の観音寺本馬土偶との出会いをきっかけに、各地の遺跡、博物館を訪ね歩き、土偶の研究を重ねている。またテレビやラジオに出演するかたわら、トークイベントなどで、縄文時代や土偶の魅力を伝える活動を行う。著書に『はじめての土偶』(2014年、世界文化社)、『にっぽん全国土偶手帖』(2015年、世界文化社)、『ときめく縄文図鑑』(2016年、山と渓谷社)、『土偶のリアル』(2017年、 山川出版社)、『知られざる縄文ライフ』(2017年、誠文堂新光社)がある。現在、中日新聞水曜日夕刊に『かわいい古代』を連載中。
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武家屋敷では甲冑を見よう。
武家屋敷では、展示された調度品に佐倉の武士の生活様式を垣間見ることができます。
武家屋敷に行ったら見逃せないのが甲冑です。大小二つの甲冑が展示してあります。また、年数回、甲冑試着会も開催されるようなので、ホームページなどでチェックしてみよう。
絵になる古径(こみち)。
家屋敷通りに隣接した古径で「ひよどり坂」といいます。サムライの古径とも呼ばれているようです。空までまっすぐに伸びる竹林に囲まれたその道は、太陽の光を程よく遮断して、なんとも言えない絵になる雰囲気を醸し出しています。サムライになった気分で、坂を下ってみましょう。
広い庭は、四季を楽しむ。
旧堀田正倫庭園は、最後の佐倉藩主だった堀田正倫(ほったまさとも)の邸宅・庭園です。 この庭園、「さくら庭園」という名で市民にも親しまれています。その名の通り、春には桜、初夏にはアジサイ、秋には紅葉など、四季折々で様々な花が庭を彩ります。